がん哲学「樋野に訊け」 10 今月の言葉「空の上から自分を見つめ直す」
がんになって自分が小さな人間になってしまった
J・Tさん 50歳男性/会社員/大阪府
Q 3カ月ほど前に前立腺がんが見つかりました。幸い、症状は軽微で、治療も手術の必要はなく、放射線治療とホルモン療法で治癒を目指せそうです。ただ、がんとは別に悩んでいることがあります。それはがんになったことによる自分自身の変化です。がんという病気になって、自分という人間が何だかとても萎縮してしまったような気がするのです。心配性になったのか、小さなことがとても気になり、人を疑いの目で見るようになってしまったのです。
例えば食事の際には、1つひとつの食材について、これは体にいいのか悪いのかと考えてしまうし、トイレの回数や尿の出具合が気になって仕方ない。また、会社内でも外出していても、人の目が気になるようになりました。さらに疑心暗鬼の傾向は人間関係にも及び、社内の先輩が「無理しないでもう少し休んでいたらどうだ」と、気遣ってくれても、邪魔者扱いされていると感じ、妻が「症状が軽くてよかったね」といってくれても、本心はどうなんだと疑ってしまう始末です。私自身、そんな自分が嫌でたまりません。
もっと明るく素直に毎日を楽しまなくては。頭ではそう思うのですが、なかなか気持ちがついて来てくれません。このままでは会社の先輩や同僚はもちろん、家族からも相手にされなくなってしまうでしょう。もっとおおらかな気持ちを持ちたいのですが……。気持ちを切り替える秘訣を教えてください。
自分を変えて神の祝福を受けた
A 人は誰でも病気になると心までが病み、疑心暗鬼の状態に陥ります。医師や看護師の言葉に一喜一憂を繰り返さざるを得ないがん患者さんの場合は、とくにその傾向が顕著に現われます。
病いが人の心まで蝕(むしば)むさまは、聖書のなかの「ヨブ記」にも描かれています。ヨブは、あるとき病を得て床に伏します。すると心配した友人たちが見舞いに訪れ、同情の言葉を投げかけます。しかし、ヨブにはその言葉が受け入れられない。
そして、そのために友人たちと反目します。その結果、ヨブは孤立し,ますます頑なになっていくのです。
質問者であるJ・Tさんも同じような状況にあると考えていいでしょう。元気な時にはどうとも思わなかった些細なことが気にかかり、家族や友人たちの励ましや軽い冗談も、受け入れられなくなり過敏に反応してしまう。当然ながら、J・Tさんのそうした反応に相手も辟易(へきえき)していることでしょう。
聞くところによると、宝塚歌劇団の舞台裏には、「ブスの25ヶ条」という貼り紙があり、そこには「愚痴をこぼす」「人を嫉妬する」「お礼を言わない」といった性向が書かれているといいます。
もちろん、ここでいう「ブス」とは、単純に容貌のことを指しているのではありません。人に嫌われる性格の持ち主、いってみれば「心のブス」を指しています。
そして、そうした心の歪(ゆが)みはその人の表情にも反映し、結果的にその人を醜く見せるようになるのです。現在のJ・Tさんはここに書かれている多くの条件に該当するのではないでしょうか。
嘘だと思うなら、一度、じっくり鏡を見てみればいいでしょう。J・Tさんの表情は硬く強ばり、人を寄せつけない頑なさが浮かび上がっているはずです。当然ながら、自身が危惧(きぐ)されている通り、このままの状態が続けば、周囲の人たちから相手にされなくなってしまう可能性もあるでしょう。
では、どうすれば荒(すさ)んだ心を和らげ、他の人たちと円満で円滑な関係を取り戻すことができるのか。冒頭で紹介したヨブ記では、友人たちとのいさかいに疲れたヨブが反省し、自らの行いを悔い改めます。
そして、その結果、神の祝福を得ることができるのです。J・Tさんの場合も解決法は同じです。まずJ・Tさん自身が自らの行動を変えることからすべてが始まると考えるべきでしょう。
向上心のある虫になる
もっとも、ここまではJ・Tさん自身も気づいておられることかもしれません。大切なのはどうすれば自分自身を変えられるかということです。そこで試していただきたいのが、自分自身を距離を置いたところから見つめ直してみるということです。
私の心の師の1人である、明治期の教育者、新渡戸稲造は「向上心のある虫になれ」とに語っています。多くの虫は自分たちの住処(すみか)である巣の中からしか、自分たちを見ていません。
しかし向上心のある虫は、巣から離れ、木の枝に上がり、空から自分たちの住処や生の営みを客観的に眺める術(すべ)を心得ている。そして、自分たちの卑小さを理解する。そのことが前向きな向上心につながり、自分たちを成長させる原動力になると説いているのです。
J・Tさんも、この新渡戸の言葉に従って、心を空に向けて解き放ち、高いところから自分自身を見つめ直してみてはどうでしょう。そうすれば自分がいかに些細(ささい)なことに拘泥(こうでい)し、歪んだものの見方をしていたかを実感として理解することができるでしょう。そう思えるようになれば、気持ちの切り替えも、それほど難しくはないかもしれません。
といっても、その過程はスムーズなものではないかもしれません。ときには、家族や友人たちが何気なく発した言葉がグサッと胸に突き刺さることがあるでしょう。
しかし、そこで大切なのは「忍」の一字です。少々無理をしてでも、その言葉に笑顔で応えることが肝要です。そうして笑顔を続けていると、次第にJ・Tさんの心が鍛えられ、品性も高められていく。
そして品性が高まれば、そこには自然と人が集まってきます。そうしているうちにまた周囲の人との関係も、円滑で良好なものに変わって行く。早い話、J・Tさんの周りでは、すべてが好循環で回っていくようになるのです。
そうなったときにもう一度、鏡で自分の顔を見つめ直してみればいい。おそらくそこには、チャウチャウ犬のように、福々(ふくぶく)しく人なつっこい誰からも好感の持たれる表情が映し出されていることでしょう。
私はがん患者さんと話すとき、必ず「窮地にあるときこそ、笑顔を見せなさい」と話します。それは笑顔でいることが、結果的にその人の品性を高めることにつながっていくからです。その意味では、病気とはその人を成長させてくれる絶好の機会といえるかもしれません。
その機会をうまく生かすためにも、まずは、一段高いところから、できれば空から俯瞰(ふかん)する視点で自分自身を見つめ直していただきたいものです。
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