がん哲学「樋野に訊け」 11 今月の言葉「全力を尽くし、後は心の片隅でそっと心配する」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2017年6月
更新:2017年6月

  

母も姉も妹も乳がんを患った

S・Yさん 50歳女性/会社員/東京都葛飾区

 今、私は精神的な苦痛に苛まれ続けています。私は3人姉妹の真ん中で、両親は10年ほど前に、それぞれ肺がん、乳がんで他界しています。さらに2年前には、姉に乳がんが見つかり、左乳房の全摘手術を受けました。そして追い打ちをかけるように、半年前に、妹にもステージ(病期)Ⅱの乳がんが見つかり、姉と同じように左乳房の全摘手術を受けているのです。2人とも既婚で、姉には2人、妹には1人、こどもがいますが、幸いにして2人とも予後(よご)は順調で、今は元気に暮らしています。

ただ、同じ家族の中で、ここまで乳がんの発症が相次ぐと、私も心穏やかではいられません。姉が乳がんになった時には、そのことを自分の問題として考えることはありませんでしたが、さすがに妹に乳がんが見つかった時には、わが身の不安を覚えずにはいられませんでした。そして、それから私はずっと自分も遠からず、がんになるという不安から逃れられないでいるのです。

夜、1人で過ごしているときには、そんな不安がさらにエスカレートすることもあります。姉や妹には家族がありますが、私は伴侶に恵まれず、今も1人で暮らしています。

そのため、がんになった後は、誰にも看取られず、1人寂しく死んでいくことになるのでは、と恐怖に駆られることもあるのです。そんな悶々とした日々が続いているために、仕事にも身が入らず、趣味の書道にも打ち込むことができません。どうすれば心穏やかな日々を取り戻すことができるのでしょうか。

ポジティブでも発症するとは限らない

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 最近になって、がんの中には遺伝的に、ある特定の遺伝子の変異によって発病する遺伝性がんがあることがわかっています。乳がんに限っていうと、全体の5~10%が遺伝要因によるものとされており、原因となる遺伝子もBRCA1、2が特定されています。S・Yさん場合は、母上、そして姉妹がともに同じ乳がんを患っています。

そのことを考えると、遺伝性乳がんの疑いが濃厚と言わざるを得ないでしょう。がん患者さんの診療では、病院でご家族の病歴もチェックされるのが一般的です。半年前にがんが見つかった妹さんの場合は、現実に遺伝子検査を受けられているかどうかは別にして、母上、姉上が乳がんになっていることから、主治医は遺伝性がんを疑っていたに違いありません。

もう少し詳しく、この遺伝性乳がんについて見ると、原因となる遺伝子の突然変異の確率には、メンデルの法則が当てはまります。突然変異が起こるのは優性遺伝なので、S・Yさんが遺伝子検査を受けた場合、ポジティブという結果が出る確率は50%。個人的なレベルで考えると、これはかなり切実さを伴った確率です。

もっとも、ポジティブと判定されたからといって、100%がんになるわけではありません。その場合でも、生涯で乳がんが発症する確率は約70%。ただ、それとは別に卵巣がんが発症するリスクも40%あるのも事実ですが。

ともあれ、質問を見ると、現在のS・Yさんの状況はがん発症に脅え、委縮した日々を送っていることが見てとれます。姉上や妹さんの嘆きや訴えが、S・Yさんの怯えをさらに増幅していることも考えられます。ともあれ、本人にすれば日々の暮らしそのものが苦痛に満ちていることでしょう。

それならいっそ、遺伝子検査を受けて状況をはっきりさせてはどうでしょう。そうして検査結果がネガティブであれば、もう、がんのことは気にしない。ポジティブであった場合は、そのことを見据えて、きちんとした対策を講じるようにする。そうしてしっかりとがんに対峙しながら、前向きに気持ちを切り替えていくのです。少なくとも、現在のように、不透明な状況で、ただ神経をすり減らし続けているよりも、状況はずっと好転することでしょう。

まずは万全の対策を講じること

当然ながら、その場合に問題になるのは、検査結果がポジティブであった場合です。そのときには、S・Yさんは状況にどう対応すればいいのでしょうか。

幕末の偉人、勝海舟は自分でコントロールできない危機への対処法として、「全力を尽くし、後は心の片隅でそっと心配すればいい」と語っています。これは、まず万全の対策を講じること。そうすれば心の片隅で心配すれば事足りるということです。

では、S・Yさんにとって「全力を尽くす」とはどういうことでしょう。それは定期的にきちっと乳がん、あるいは卵巣がんに特化した検査を受診するということです。乳がんに関して言えば、会社内の健康診断などでは見逃されることもあるという声も聞きます。しかし、それはすべての病気を対象にした一般的に健診に対する見方です。乳がんに特化した検査なら、ステージⅠ程度のがんなら、ほとんど見逃されることはありません。そして、現在の治療技術をもってすれば、その段階の乳がんなら、ほぼ100%治癒が可能です。

そうして考えると、勝海舟の言葉もすんなりと腑(ふ)に落ちるのではないでしょうか。遺伝子検査の結果がネガティブであればそれでよし。ポジティブだった場合は、信頼できる医療機関を見つけて、きちっと定期的に専門的な検査の受診を継続する。そうすればがんが発症したとしても、ごく初期段階で発見されるし、ほぼ100%の確率で治療も成功するのです。いずれにせよ、今の状態を続けているだけではS・Yさんの状況に変化が訪れることはないでしょう。

闊達(かったつ)な日々を取り戻すには、果敢にチャレンジすること。そうして積極的に行動することにより、これまで以上に人生に対する視野が広がり、より充実した日々が送れるようになることも十二分に考えられる。その意味では、S・Yさんは新たな人生に向けて、飛躍の時期を迎えているとも言えるでしょう。好機を逃さないためにも、前に挙げた勝海舟の言葉をしっかりと噛みしめていただきたいと思います。

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