がん哲学「樋野に訊け」 14 今月の言葉「心を空っぽにすれば、そこに水を与えてくれる人が現われる」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2017年9月
更新:2017年9月

  

母親の他界ですべてが変わってしまった

Y・Hさん 37歳男性/神奈川県川崎市

 30代後半、独身のパン屋の店主です。中学生の時に肺がんで父親を亡くし、高校卒業後、ずっと母と2人で小さなパン屋を切り盛りしてきました。これまでの人生、ずっと母親と2人で生きてきたといっても過言ではないでしょう。

その母が昨年、肝臓がんで入院、わずか1カ月後にあっけなく帰らぬ人となりました。まだ60代半ばの若さで、私にとっては文字通り、青天の霹靂(へきれき)でした。

ずっと母と2人きりで暮らしてきたせいでしょうか。母の死後、数カ月を経過した今もまだ、母の死を現実として受け止めることができません。同年代の友人、知人の母親が元気にやっているのを見るにつけ、なぜ、自分の母親だけが、と不条理な思いにとらわれてしまうのです。

と、同時に嫁や孫の顔を母親に見せることもできなかった自らの不甲斐なさに、無念の思いと後悔に明け暮れてもいます。母との思い出の品を見るのもつらく、まだ遺品の整理も手につきません。このままではだめだ、新しい気持ちでやりなおさなくては、とわかってはいるのですが、どうにも一歩を踏み出すことができず、ただ、惰性で店を続けている毎日です。

深夜1人で酒をあおっているときには、いっそ、自分も母の後を追ってやろうかという衝動に駆られることもあります。どうすればこんな状態から、母の死を乗り越えていくことができるのでしょうか。

自分の中に機軸を持つことの大切さ

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 人間は社会的な生きもので、他の人と支え合い、助け合いながら日々暮らしています。もっとも、それが行き過ぎて、他者との関係に依存するようになると、様々な問題が生じます。

今、アメリカでは、フェイスブック症候群と呼ばれる若者たちが急増していることが問題視されているそうです。これは他の人たちから、「いいね」と評価されないと、精神的に不安定な状態に陥る若者たちを指しています。

彼らがそんな状態に陥るのは、自分自身の中に機軸を持たないことに起因していると思われます。結局のところ、他者との関係に依存し過ぎた結果、自分の中に混乱がもたらされているわけです。

Y・Hさんの場合は、まったく状況は違っています。唯一無二の存在である母親が突然、他界したのだから、痛烈なショックを受けないほうが不思議と言ってもいいかもしれません。そのことは私にも十二分にわかります。

しかし、質問を見るとY・Hさんの場合は、母の後を追おうという衝動に駆られるなど、落ち込みの程度があまりにも度を越しています。そのことを考えると、Y・Hさんも他者との関係、つまり母親との関係に依存して、自分自身の機軸を持っていなかったと言わざるを得ないように思われます。逆に言えば、Y・Hさんが母上の死を乗り越えていくためには、まずは自分自身の機軸を持ち、それをしっかりと育てていくことが必要でしょう。

人との出会いで視野が広がる

では、そのためにはどうすればいいのか。逆説的な物言いになるかもしれませんが、ここしばらくは人生に機軸を持たない空っぽの状態で生きていくようにすればいいように思います。

ただし、現在のように酒を飲んでやけになったり、元気に暮らしている友人、知人の母親を見て、不条理を感じるようなネガティブな気持ちはきっぱりと捨てなければいけません。ただ無心にすべてを受け入れる気持ちで日々を送るようにすればいいのです。

人生とは不思議なもので、そうして心を空っぽの状態にしていると、誰かが訪れて、そこに滋味豊かな水を注いでくれるものなのです。

そうして多くの人たちとの出会いを通して、空っぽの心に少しずつに水を満たしていけばいい。その過程で、徐々にY・Hさん自身の人生の機軸が形成されていくことでしょう。焦らず、慌てず、ゆっくりといろんな人との出会いを楽しみながら、自分自身を癒していけばいいのです。

近親者やごく親しい友人が亡くなると、誰しも1年程度は落ち込みなどによる停滞の期間が続きます。実はこの期間の過ごし方で、その後の人生が大きく変わってきます。流されているばかりだと、落ち込みがさらに長引き、それが延々と続くことも考えられる。

逆にこの期間を充電の期間と捉えて、ゆったりとした心持で過ごせば、いろんな人たちとの出会いを通して、1人の人間として、大きく成長することも可能でしょう。

そうしてみるとY・Hさんは、いわば人生の試金石というべき局面に向かい合っているのかもしれません。

具体的な方策としては、もし、経済的に余裕があるのであれば、1年間ゆったりと旅行を楽しむのもいいし、また期間を区切って、パン作りの修業に出てもいい。もちろんパン作りとはまったく異なる分野の仕事にチャレンジしてもいいでしょう。

もっとも、そうして外に出なくても出会いは訪れます。今、Y・Hさんはどんな表情で日々の仕事をこなしているのでしょうか。おそらく切羽詰まった、悲壮感に満ちた形相で店先に立っていることでしょう。

残念ながら、それでは人が寄ってくることはありません。心を無にしてすべてを受け入れようとしていると、風貌がゆったりし、チャウチャウ犬のような和やかな表情に変わります。

そうなると、自然と人が周囲に集うようになる。そこから、大切な出会いも生まれ、育まれていくことでしょう。

そして、そうした人との出会いによって成長すると、今度はY・Hさん自身の視野が広がります。これまでは自分より恵まれた人しか目に入らなかったのが、今度は自分より気の毒な状況にある人も視界に入ってくるようになる。

そうなれば、今度はY・Hさんがその人に水をあげる立場になるのです。マイナス×マイナスがプラスになるように、そうした出会いはお互いにとって、大きなプラスになるものです。

そして、そのことを通してY・Hさんは1人の人間として成長されることでしょう。

そうした過程を経て、深くダメージを受けた心が癒され、いつしか母上の死も乗り越えていることでしょう。それが1年後になるか、3年後になるか……。ともあれ、まずは心を無にして、すべてを受け入れる気持ちになることから始めていただきたいと願います。

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