がん哲学「樋野に訊け」 15 今月の言葉「真の幸せは、日々の暮らしの中にある」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2017年10月
更新:2017年10月

  

余生をアフリカで過ごしたい

T・Sさん 55歳男性/会社員/東京都

 今年の夏、血痰(けったん)が続くので病院で検査を受けたところ、思いもかけなかった診断が下されました。肺がん、それも骨や脳に転移の徴候のある末期に近い状態だと告げられたのです。担当医ははっきりとは口には出しませんが、ネットなどで調べると、やはり予後に期待は持てません。余命は1年から2年程度のように思われます。それで残された人生をどう生きるべきか、自分なりに考えました。

幸い、今のところ、症状はごく軽微です。また愛娘はすでに結婚し、自分の家庭を築いています。そんなこともあって苦しい治療を受けるよりも、残された時間を精一杯、生きたいと思うようになりました。

実は私は若い頃から、アフリカでボランティア活動に身を投じたいという夢がありました。人生の最期にその夢を実現させたいと考えているのです。もっとも妻にその話をすると、猛烈な反対意見が返ってきました。妻も私の病気について勉強してくれているようで、肺がん治療では、効果の高い新薬が使われ始めているし、治療を続けているうちに、また新たな治療薬が出現することも考えられる。

だから、がんばって治療を続けて欲しいというのです。妻は妻なりに私のことを考えてくれているのだから、彼女の意見をむげにするわけにもいきません。

しかし、私の考えは変わりません。どういって妻を説得すればいいのか、悩んでいます。

相互理解が衝突を解消させる

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 がんという病気では、治療について患者さん自身とご家族で意見が衝突することが少なくありません。実際、私が主宰するがん哲学外来でも、毎回のように、同じような相談が持ち込まれています。

そんな場合、私は必ず、奥さんをはじめとするご家族同伴での再訪をお願いしています。と、言うのは、患者さんとご家族の意見がかみ合わない最大の原因として、お互いが自分のことばかりに気をとられていることがあげられるからです。患者さんとご家族、それぞれが相手の立場や状況を理解しようとせず、自分の考えに固執している。その結果、双方を隔てる溝がどんどん深まっているわけです。

そこで、私はお互いが本音をぶつけあい、なおかつ相手の言葉に真摯に耳を傾ける機会を設けるようにしているのです。すると、不思議なくらいにするすると、双方を隔てていたわだかまりが氷解し、互いに深く理解し合うようになるのです。当然、その時には、意見の衝突は跡形もなくなっています。

実は1年ほど前にも同じような相談を受けたことがあります。

患者さんは中年の男性で、抗がん薬には期待できないから治療を放棄したい、一方、奥さんは大反対で、とにかく治療を始めて欲しいという。そこで小学生のお子さん2人も交え4人でがん哲学外来に来てもらうことにしたのです。すると、奥さんやお子さんの言葉を聞いて、患者さんの意見が変わりました。家族のために治療を受けたいと言われるようになったのです。奥さんや子どものために、少しでも長生きしたいと思うようになったとも言われました。残念ながら、その患者さんは奮闘虚しく、病魔の克服はかないませんでした。しかし、父親が病気と闘う姿は、2人の子どもにも大きな感銘を残したと奥さんは話しておられます。

私は人生で最も大切なことは、残された人たちにどんなプレゼントを残していくか、ということだと思っています。その点でも、この患者さんはとても素敵なプレゼントを残していかれた。とても立派な生きざま、死にざまだったといえるでしょう。

深く悩み、覚悟を醸成する

さて、質問のケースです。

私はがん治療に際して、最優先されるべきなのは、最も苦しんでいる人の意見だと思っています。質問のケースで言えば、T・Sさんの「アフリカに行きたい」という意見が最優先されて、しかるべきだということです。

しかし、そう結論づける前に1つの疑問が残ります。T・Sさんはどの程度、本気でアフリカ行きを考えているのかということです。言葉を替えれば、そのことについてきちんとした覚悟ができているのか、ということでもあります。覚悟を決めるには、深い熟慮のプロセスが必要です。その時には、自分だけでなく、自分の周囲の人たち、とくに家族のことについてもじっくりと考えなければなりません。そうして悩みに悩み、考えに考え続けた結果として覚悟が醸成されていくのです。

しかし、残念ながら、質問を見る限りでは、そうしたプロセスが踏まれているとは言い難いような気がします。例えば、奥さんのこともしっかり考えているのであれば、「一緒に行ってみないか」という一言が、自然に出てくるものではないでしょうか。さらに言うと、人生の最期の迎え方について、本当に熟慮すると、ありきたりのごく平凡な日々にこそ、幸福を感じるようになるものです。その結果、地道に淡々と日々を送りたいと考えるようになる。

ともあれ、T・Sさんにお願いしたいのは、1時間でもいいから自室に閉じこもり、自らの今後について、徹底的に考え抜かれること。もちろん、その場合には、奥さんをはじめとするご家族や周囲の人たちのことにも思いを致さなければなりません。そうして苦しみの果てに出てきた結論について、奥さんと話し合っていただきたい。どんな結論が出るかは私にはわからない。しかし、そこにしっかりとした覚悟が伴っていれば、奥さんにも同意してもらえることでしょう。そしてその結果、周囲の人たちにも、とても素敵なプレゼントを残せるに違いありません。

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