腫瘍内科医のひとりごと 145 がん治療の50年

佐々木常雄 がん・感染症センター都立駒込病院名誉院長
発行:2023年1月
更新:2023年1月

  

ささき つねお 1945年山形県出身。青森県立中央病院、国立がんセンターを経て75年都立駒込病院化学療法科。現在、がん・感染症センター都立駒込病院名誉院長。著書に『がんを生きる』(講談社現代新書)など多数

私が、がん治療を専門として50年になります。

大学卒業後2年目、私は青森県のある病院で急性白血病の患者を受け持っていました。患者の病状が一進一退している頃、青函トンネル工事現場を、日曜日に何回か見に行きました。

白血病やがんの専門病院で勉強したい

津軽半島の先端で、海を眺めているとき、「一度は、白血病やがんを専門としている病院に行って勉強したい」と思いました。

医学雑誌で、国立がんセンター(現国立がん研究センター)のレジデント募集の記事を見て、応募してみることにしました。

当時、このことは、大学の医局を出てしまうことになり、M教授はいい顔はしなかったと思いますが、それでも推薦状を書いてくれました。

面接があり、6、7人の試験官を前にして何を聞かれたか覚えていませんが、採用されることになりました。

医師となって3年目の5月。世の中は浅間山荘事件などが起こり、月給は5万円と薄給で、なんとなく不安でしたが、レジデント(第4期生)として3年間、がんセンター病院内に住み込むことになりました。

しかし、カルチャーショックというか、各がん専門分野の診断技術は想像以上のものがありました。

消化器部門では、X線透視画像、内視鏡像から、早期胃がんが発見できるようになり、その技術習得のため、全国から研修生がたくさん集まっていました。CT画像はまだない時代でしたが、胸部X線像、縦断層写真で、肺がんの組織診断まで詳細に読影していました。

各診療科を回った後、2年目から血液内科に所属し、白血病・悪性リンパ腫の患者を受け持ちました。夜は上司の研究の手伝いで、主にがん患者の血液凝固・線溶検査でした。

当時、悪性リンパ腫は顕微鏡像から、リンパ肉腫、細網肉腫(さいもうにくしゅ)と分類され、リンパ球はT細胞、B細胞など識別されていませんでした。

あるとき、鹿児島から来た研修生が、教科書にない変な細胞が末梢血にあるとプレパラートを持参しました。みんなで議論しましたが、実は、それが成人T細胞白血病だったのです。

50年、がん制圧に一歩ずつ近づいている

3年間のレジデント終了をひかえ、田舎に帰る準備をしていました。

ところが、大学のM教授から、「東京の新しくなる病院に赴任することになったから、君はそのまま残って、手伝ってくれないか」と言われたのです。

「1年くらいは、お手伝いしよう」と考え、了解したのですが、それがずっと50年間もお世話になっているのです。人生は、何がきっかけになるか、わからないものだとつくづく思います。

白血病、がん患者が良くならず、気落ちしても、それでも翌年には、新しい治療法、新しい薬が出て、次の患者が良くなっていく。寛解して、そして治る患者が増えていきました。

50年前、使える抗がん薬は、たった7~8種類ほどしかなかったのですが、いまや100種類以上、骨髄移植そして分子標的薬、免疫チェックポイント阻害薬があります。がんは強敵ですが、制圧に一歩、一歩近づいているのを感じます。

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