精神腫瘍医・清水 研のレジリエンス処方箋

第10回 1度だけの人生を一生懸命生きて、死に備える姿勢

構成・文●小沢明子
発行:2021年1月
更新:2021年1月

  

しみず けん 1971年生まれ。精神科医・医学博士。金沢大学卒業後、都立荏原病院で内科研修、国立精神・神経センター武蔵病院、都立豊島病院で一般精神科研究を経て、2003年、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)東病院精神腫瘍科レジデント。以降一貫してがん患者およびその家族の診療を担当。2006年、国立がんセンター中央病院精神腫瘍科勤務、同病院精神腫瘍科長を経て、2020年4月よりがん研有明病院腫瘍精神科部長。著書に『人生で本当に大切なこと』(KADOKAWA)『もしも一年後、この世にいないとしたら』(文響社)『がんで不安なあなたに読んでほしい』(ビジネス社)など

みなさんは、死を身近に感じた経験がありますか。

かつて日本では、かかりつけの医師に往診してもらい、最後は自宅で看取られることが当たり前の時代がありました。子供たちも、祖父母が少しずつ衰弱していく姿を目の当たりにするので、「死」に関するイメージを明確に持っていたはずです。

しかし、現代は死を医療機関で迎えることがほとんどです。亡くなった方は、他の患者さんの目に触れないようにという配慮のもと、正面玄関ではなく、裏口から見送られます。また、死をイメージする「4」「9」という番号を病室に使わない医療機関も数多くあります。死は誰にとっても日々の延長にあるはずですが、現代社会では「死」をなるべく遠ざけようとする傾向があるようです。

「若々しく生き続け、突然ぽっくり死にたい」と願う人は多いでしょう。でも、多くの人はどこかの時点で老いや死に直面します。いざ健康を喪失したとき困惑しないためにも、「人生には限りがあり、いつ自分も病気になるかわからない」ということを頭の片隅に入れておいて欲しいと思います。

「死を見つめることは、どう生きるかを見つめることだと気づきました」というのは、多くの患者さんが言われる言葉です。命に限りがあることを意識することは、「大切な今を無駄にしないで生きよう」という心構えにつながり、人生を豊かにします。

一方で、死を考えるのが怖いという方もいらっしゃるでしょう。次号では、「死の恐怖との向き合い方」について触れる予定です。

「人生は1回限りの旅である」

「たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日りんごの木を植える」というマルチン・ルターが語ったとされる言葉があります。

私ががん患者専門の精神科医として働き始めて2年目のとき、とても印象的な患者さんに出会いました。

20代で口腔がんになった男性患者さんで、手術したものの再発してしまい、口の中の腫瘍が大きくなって何も飲み込めない状態でした。

「もし私が彼のような状況だったら、絶対に耐えられないだろう。彼にどんな言葉をかけたらいいのだろう」と恐る恐る病室に足を運ぶと、彼は笑顔で私を迎え入れてくれました。また、家族やケアを担当する看護師など周囲の人にも、いつも感謝の気持ちを伝えていました。ジュースをスポイトで飲み、「おいしい」と笑顔を見せたり、好きな小説を読んで感動したと楽しそうに話したりしました。

当時の私は、彼がなぜ厳しい状況でありながら取り乱すこともなく、前向きな姿勢でいられるのか、とても不思議でした。

彼は笑顔を絶やさず、半年後に亡くなりました。彼と別れた悲しみとともに、その生き方に感動しました。

そのころの私は、「若い私が死を間近にした患者さんの力になれるはずがない」と思ったり、自分が関わった患者さんが亡くなってしまうたびに、患者さんの悔しさや悲しさが私の中にも残っているように感じたりしていました。「何のために自分が今生きているのかわからない」という大きな虚しさを感じ、苦しい時期でした。

この患者さんは、そんな私に、きっとどこかに道筋はあるだろうという希望を与えてくれたように思います。

そして、多くの患者さんの姿を見ているうちに、「健康は永遠に続くものではない。自分もいつ病気になるかわからないのだから、今日を無事で過ごせることはありがたい」という感謝の念が湧いてきました。

ちょうどそのころ、たまたまテレビから流れてきた「人生は、1回限りの旅である」というフレーズが心の中にスーッと入ってきました。

「死んだらすべてが終わる。死が訪れるまでの生を、どう考えたら人生に意味を見出せるのだろう」と思い詰めていた私には、目から鱗が落ちるような感覚でした。

「この世に生まれ、せっかく1回だけの旅をする機会を与えられたのだから、いろいろな人と出会い、さまざまな経験をして、豊かな旅にしないともったいないな」と、はっとしました。人生を終着点のある旅だと考えるのならば、「死」は恐れの対象ではなく、「終着点」でしかないのです。私の中に初めて、「死生観」が生まれた瞬間でした。

人生のフィナーレの捉え方はそれぞれ

死を人生の中でどう捉えるか、死生観は人それぞれです。

65歳で大腸がんの末期の男性は、最近生まれ故郷の景色がとても懐かしく思い出されるという話をされました。

祖父母はいつも自分を甘やかしてくれて、近所のスーパーでお菓子をたくさん買ってもらったこと。子どもがいない叔父は自分のことを息子のようにかわいがってくれ、いつもドライブに連れて行ってくれたこと。幼馴染とワクワクしながら浜辺で花火を見たこと。真夏のネギ畑の強烈なにおいの中を両親につれられて銭湯へ行ったこと。エピソードの1つひとつが温かく、何度振り返ってもそのたびに気持ちが満たされたそうです。

そして、「自分もいろんな人生の登場人物になっているだろうな。僕のことを覚えていてくれる人が生き続ける。大切な人の思いを僕が受けて次の人にそれを手渡している。そう考えると、自分はちゃんと命をつなぐ役割を果たしているような気がするんだ」と。

死後の世界が存在しないとしても、自分の魂(たましい)が大切な人の中で生き続けると捉える人もいます。また、そう思うことで「死によって自分が消滅する恐怖」が和らぐことにもつながります。

多くの人は、死という人生のフィナーレのために、きちんと準備をする時間があることを望まれるでしょう。がんで亡くなられた宗教学者の岸本英夫さんは、死を「大切な人たちとの大きな別れ」と捉え、良い別れをするために相応の準備をすることで心が穏やかになると言っています。

旅の終着点、命をつなぐ役割、大切な人との大きな別れ、いずれの考え方も1度だけの人生を一生懸命生きて、死に備えるという姿勢につながっていくと思います。

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