世界屈指の手術件数を持つ大腸外科医

外科技術伝承の場の喪失は、医療界の財産の喪失を意味する

取材・文●黒木 要
撮影●向井 渉
発行:2014年7月
更新:2019年7月

  

森谷冝皓 日本赤十字社医療センター大腸肛門外科

日本赤十字社医療センター
大腸肛門外科の森谷冝皓さん

腫瘍外科のプライオリティ(優先順位)として1は根治性、2は機能温存性、3は短い手術時間と少ない出血、4は inexpensive(あまり費用のかからない)な手術コストというのが森谷冝皓さんの口癖だ。大腸がん手術ではいずれも大事な要素だ。

もりや よしひろ 昭和46年(1971年)岡山大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院外科医員となり、同62年(1987年)に大腸外科医長に昇任。手術部部長、消化管腫瘍科下部消化管外科長などを歴任。平成24年(2012年)に日赤医療センター常勤嘱託医になる。日本外科学会専門医、指導医、日本消化器外科学会評議員。日本大学医学部消化器外科講師、元オランダ・ライデン大学客員教授、元JCOG大腸グループ代表、第70回大腸癌研究会世話人など役職も多い。直腸がん手術に関する海外招待講演は60回に及ぶ

世界屈指の手術件数を持つ大腸外科医

この日、手術を受けたのは81歳の女性Bさん。盲腸がんであるが、危惧された肝転移などの遠隔転移はなく、リンパ節転移も陰性。臨床病期はステージⅡである。

術式は回盲部切除。結腸にT字型につながっている回腸の一部と、その結合部から始まる上行結腸および結合部の下の盲腸の、それぞれ一部を切除する。

午前9時25分、手術が始まった。直前に「写真は何を撮りたいですか?」と聞かれ、思わず「一部始終……」と答えた。答えになっておらず、慌てて「原発巣の切除とリンパ節郭清をお願いします」と付け加えた。「まだ取材のストーリーができていないか?」と森谷さんはニンマリと笑った。

実はどの部位のどのような手術か、さっき聞かされたばかりで、〝狙い〟をどこにすべきか思案中だった。でもまんざら的外れではないかもしれない。森谷さんは前任の国立がんセンター(現国立がん研究センター)36年間の在任中、3,000件以上の手術を行っており、「世界屈指の技術を持っている」と内外で評価されている医師である。とくに超進行直腸がんに対する骨盤内臓全摘術(下図)は200以上の症例を持ち、おそらく世界一である。

今日の手術は盲腸がんで、すぐ近くに排便や排尿、性機能を支配する自律神経が走っていたり、膀胱などの臓器も隣接している直腸がんの手術ほど難易度は高くない。

「過不足のない切除」の一端を垣間見る

しかし、かつて助手としてアシストした医師や見学した医師がこぞって唸る、「過不足のない切除」の一端を垣間見ることができるのではないか、と思いながら見守った。

第1助手の天野医師との呼吸はぴったり

患者さんの足の延長線上にポジションを取って見学する。仰向けに寝ている患者さんの左手に森谷さん、その手前に第2助手、森谷さんの対面に第1助手、その手前に器具出しの看護師が位置する。

後腹膜から結腸を剥離する

開腹創から横行結腸と上行結腸を引き出し、血管の結紮を行う

回盲部切除で患部を摘出

手術開始から5分、「今、剥離やってまーす」と森谷さんが声掛けをしてくれた。

横行結腸は脂肪の膜の大網にくっついているが、上行結腸(および下行結腸)は後腹膜にくっついている。これを剥離しているのであろう。それが終わって開腹創から横行結腸と上行結腸が引き出され、血管の結紮が始まった。横行結腸の中央を境として右側と左側の結腸では、支配している血管が異なる。

この手術では、横行結腸間膜付着部の尾っぽ側で上腸間膜静脈を露出させ、末梢に向かって剥離をさらに進めて行き、回結腸静脈とその近傍にある回結腸動脈を確認した後、その根元を結紮。この血管処理が終われば回盲部切除が行われる。

手順は教科書にそう書いてあるが、見ているだけではどの段階であるのか、よくはわからない。

派手さは微塵もない 淡々とした手術

森谷さんの手術は一言でいえばスタティック(静的)である。メスさばきにしろ、ちょんちょんと少しずつ分け入っていく感じで、実にスタティックなのである。華麗さや派手さは微塵もない。超一流の外科医といえば強烈なバイタリティを発揮して、ぐんぐんと手術を引っ張っていくイメージがある。

しかし森谷さんの手術は淡々として穏やかに進む。それにしても出血がほとんどない。ときおりガーゼで押さえるだけで、そのガーゼもうっすらと滲むだけ。出血が術野を妨げることは一度もない。

9時55分。「ここが、がんです」との声。近づいてみると、少し白っぽくてゴツゴツとした感じの盲腸がんが見える。すぐに切除が始まり、10時前には終了。

「吻合します」との声が続き、手術はテキパキと進んでいく。器械縫合に続き、手による縫合も終了。開腹創から腸が元の位置に戻され、ドレーンの管が刺入されて洗浄を数回行い、11時前に手術終了。ほぼ予定通りの1時間35分の所要時間であった。

患者さんの家族への報告を終え、森谷さんが自室へ戻ってきた。顔には手術の疲れは微塵もない。
骨盤内臓全摘術などでは12時間もぶっ続けで手術をするのだから、今日の手術は楽な部類に入るのだろう。「今日の出血量は?」真っ先に気になっていることを聞いた。

「5ccです」。

思わず聞き間違えたかと思って聞き直すと同じ答えが返ってきた。通常は30~100ccの規模の手術のはずだ。国内30施設からステージⅡ・Ⅲの1,057人の大腸がん患者が登録され、腹腔鏡下手術(533人)と開腹手術(524人)の根治性を比較したJCOGのランダム(無作為)化比較試験。この試験で出血量の中央値は30cc対85ccと報告されている。これと比べていかに少ない出血かがわかる。

手術の内容がかなり異なるので引き合いに出すのはいささか気が引けるのだが、取材準備のために読んだ資料の中に、今日の手術を彷彿とさせるエピソードがあった。

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