ラガーマンが選んだ頭頸部専門医の道
「左手が頭脳、右手は職人」 集中力で難手術をコントロール
岸本誠司
亀田総合病院頭頸部外科部長/同病院頭頸部頭蓋底腫瘍センター長
東京医科歯科大学特任教授
岸本誠司さん
首(頸部)から上、機能的にも外見的にも複雑な部位を扱うのが頭頸部外科だ。骨や神経が密集するこのエリアは、ほかの部位の手術と比べて独特の難しさが伴う。頭頸部の手術を年に200回以上、40年にわたって成功させてきた凄腕の医療人がいた。
きしもと せいじ 1973年京都大学医学部卒。京大医学部附属病院、天理よろず相談所病院勤務の後、スイス・チューリヒ大学に留学。静岡県立総合病院、高知医科大学(現高知大学医学部)、国立がん研究センター東病院を経て、1999年に東京医科歯科大学頭頸部外科教授。2014年から現職。日本頭頸部癌学会元理事長
ステージⅣの耳下腺がん手術開始
7月上旬、午前10時半。千葉県鴨川市に構える亀田総合病院の12番手術室に、頭頸部外科部長の岸本誠司さんが入ってきた。手術台で麻酔処置を終え横になっている患者さんを見やると、手術をともに行う医師2人やスタッフと頭を突き合わせて、最終の確認を行った。
この日の患者さんは、80歳代の男性。診断名は耳下腺がん。珍しい部位のがんだ。耳下腺はおたふく風邪で腫れるところで、がんになっても表面に出てくることが多いが、この男性の場合、がんが奥のほうに進んだため、触った感じではしこりに気付かないものだった。
患者さんは、半年ほど前から顔面の麻痺を覚えるようになり、最寄りの医院から亀田総合病院に紹介されてきた。最初に診た神経内科でCTや穿刺細胞診などの検査をした結果、腫瘍が見つかり、顎骨(あごの骨)の奥まで浸潤していた。しかも、病理検査で質のよくないがんとわかるなど難しい条件が重なっていた。頸部リンパ節転移もあるステージⅣの状態だった。頭頸部外科の岸本さんの担当となった。
「高齢ですが、しっかりした方です。積極的に治療をして良くなりたいという意識が明確で、心臓など全身状態(PS)も問題なかったので、本人とご家族に十分にご説明した上での手術となりました。耳下腺のがんは切除しなければ治癒は望めません」
目まぐるしくメスやピンセットを選択
岸本さんは、倍率2.5倍のルーペとヘッドライトを手術用防護メガネの前に装着し、メスを握った。まずは、リンパ節の郭清。耳の下から15㎝ほどを切開し、慎重に分け入っていく。右手には、ピンセットあるいはハサミ型の電気メス、左手にはピンセットや何本もの鉗子が次々に握り直されていく。時折左手で直接患部に触れ、何かを確かめている。
出血はほとんど見られない。太い血管と神経を剥離しながらの細かな作業だ。11灯のライトが岸本さんの手元を照らす。
45分後、頸部後方リンパ節の一部が取り出された。さらに本体となるリンパ節の切除に移る。電気メスとピンセットはだいぶ深く入り込んできた。出血を防ぐべく、血管の結紮が次々に行われる。
岸本さんは後輩にあたる医師たちに、小声で指示と指導を与えながらも、視線は手先に集中している。
2時間後、赤い固まりが取り出された。脂肪に包まれたリンパ節だ。リンパ節は脂肪に包まれているので、ばらばらにせずそのまま摘出するのが安全だという。リンパ節だけ取ろうとしてそこからがん細胞がはじけてしまうことがあるからだ。
手術はさらに進み、いよいよ、がんの本体に向かった。今回の難しさは、がんが顎骨の奥まで進んでいることだった。耳の骨を削り、腫瘍を取り除く。腫瘍は直径3㎝ほどだった。手術開始から約7時間半、男性の頸部は元通りに閉じられ、手術は終わった。岸本さんは予定より2時間ほど長くかかった手術を終え、安堵の表情でマスクを取った。
細かな血管・神経剥離に高度技術が要求
「病巣は奥のほうにがっちり入っていました。危険な手術でした。手術中に採取した組織を迅速病理検査に回しましたが、頸部のリンパ節から先への転移は見つかりませんでした。がんは取り切りました」
手術後に岸本さんは、ゆっくりと話し始めた。「頭頸部のがんの中でもとくに耳下腺のがんは手術で取り除くのが一番です。今回のケースでは分子標的薬の*ハーセプチンも効くのですが、日本では保険適用外です。投与したとしても完治するものではありません。本人の意思と全身状態、家族のサポートという3要素が揃えば高齢でも手術をします」
今回の手術でとくに注意を払ったことは何か。「今回に限らないのですが、頭頸部がんでは細かな血管や神経の剥離が重要です。神経や血管が密集した中で手術を行うので、腹部などとは違った技量が必要となります。職人としての特殊な技術が要求される分野です」
*ハーセプチン=一般名トラスツズマブ
症例数が少なく専門性が求められる頭頸部がん
頭頸部とは、鎖骨から上と脳の下側までの間を指す。鼻、口、喉、上顎、下顎、唾液腺などの部位にできるがんの総称が頭頸部がんだ。顔面の深部や頭蓋底まで進展した腫瘍も含まれる。すべてのがんの中での割合は5%ほどで、しかも鼻、副鼻腔、耳下腺、舌、喉頭、咽頭など種類が非常に多く、発生原因や治療法も異なるため専門性の高さが要求される。岸本さんのところには、他の病院では対応しきれない重症の患者さんが紹介されてくることが多い。
「頭頸部には様々な働きがある上、外見的にもとても大切なところです。物を食べたり、声を出したりという機能への影響がなるべく少ないようにし、容姿維持にも最大限の配慮をします」
岸本さんは大阪生まれ。幼少のころは、父親の転勤のため東京をはじめ各地で過ごしたが、高校は神戸高校に通った。そして、京都大学医学部に進学。医学の勉強の傍ら、ラグビーを始めた。ポジションはフォワードのまとめ役である「ナンバーエイト」。ラグビーは医師となってからも続けることになる。京大卒業後は、京大医学部附属病院の耳鼻咽喉科に入局する。
「耳鼻咽喉科は幅が広くいろいろなことを学べると思いました。経験を積むにつれ、自分は腫瘍の専門家になろうと決意しました。定型的な手術というよりも、1例ごとに自分で考えて手術することが要求されることに興味を持ちました」