武器を手術から化学療法へ変えて、なおもがんと闘い続ける
元大手製薬会社役員、川野和之さんの「壮絶な闘病日記」 その後

発行:2006年11月
更新:2019年7月

  
川野和之さん
川野和之さん

かわの かずゆき
1944年大分県生まれ 科研製薬、ファイザー製薬に勤務後、ブリストルマイヤーズ製薬名古屋支店長、スミスクライン・ビーチャム製薬(現グラクソ・スミスクライン)取締役営業本部長を歴任 2001年に退社。

[治療経過]
1999年10月 直腸がん手術、肝転移2カ所切除
2001年8月 胃がん亜全摘術、肝転移2カ所切除、胆嚢切除
2002年4月 肺転移胸腔鏡手術、左肺舌区切除術
2003年5月 肺転移切除、左上葉切除術
11月 肺門部、横隔膜リンパ節転移の疑いで化学療法開始
2004年6月 化学療法終了
9月 肝転移、膵がん切除、横隔膜切除、脾臓摘出
2005年3月 化学療法再開
  現在に至る


術後に襲った激しいダンピング

「今はひと月のうち2週間は死んでいます」

そういって川野和之さんは穏やかに笑う。隔週毎に受けている化学療法の副作用で治療直後の1週間はほとんど何もできず、自宅に引きこもることが多いという意味だ。それでも次の1週間には元気が出て6年間続けている太極拳に出かけたり、夫婦そろって映画を見に行ったり、春にはお花見、筍狩りに出かけたり、季節ごとに近郊郊外の散策を楽しんでいる。それが、がん発症から丸7年が経過した川野さんの日常風景だ。

川野さんは、以前弊誌に「直腸がんになり、肝転移、肺転移を繰り返しては手術を行い乗り越えてきた」という壮絶な闘病記を書いている。その闘病記は、2004年9月の手術の記述で終わっている。それまでの手術による癒着の剥離に5時間かかり、全部で10時間の大手術となったが、闘病記では比較的あっさりと記されている。しかし実は「この手術が苦しかったし、自分にとって決定的だった」と、川野さんは話す。

このときの手術では肝臓の転移巣が予想外に横隔膜にまで浸潤していた。肝臓、横隔膜、さらに膵臓の腫瘍を切除するとともに脾臓も摘出した。手術そのものは成功だった。

だが、胃につながる血管が1本しか残せなかったため、川野さんは手術直後からひどいダンピング症状に見舞われた。胃の働きが極端に低下し、1口食べただけで激しい発汗や悪心が続いたのである。体重はみるみるうちに減少していった。

しかも体内に入れたドレーンの浸出液がきれいにならないうちに、病院から退院するようにいわれた。川野さんは大きめの滅菌ガーゼ、ピンセット、消毒用の器具などをひと通り買い揃え、妻の昶子さんの手を借りて毎日自宅で消毒をした。退院1週間後には外来にくるように指示されていたが、その頃もまだ微熱が続いていたし、体力的に混雑した電車に乗れる状態ではなかったので、診察があるときは前日から病院のそばのホテルに宿泊した。タクシーで通院すれば良いのだが、朝の時間帯は渋滞がひどいため、時間が読めないからだ。

手術はもうたくさんだ

写真:元上司の社長就任祝いパーティで

2005年2月8日、元上司の社長就任祝いパーティで

この頃、川野さんは日記にこう記している。

「どうしてこんな苦しみを背負わねばならないのだろう。正直、手術はもうたくさんだ」

大腸がんは肝臓や肺への転移があっても手術で完治することがある。だから転移しても「切って切って切りまくる」。そういって常に気持ちを奮い立たせていた川野さんも、珍しくこのときは弱音を吐いたのだった。

「術前に、場合によっては胃を全摘するかもしれないといわれていました。幸いそれはせずにすみましたが、あのときの手術で体力が本当に衰えました。それまでも手術後には体重が落ちましたが、いつもまたじきに戻っていたんです。しかし今回はとうとう戻りませんでした」

もっともこのときも、川野さんはいつまでも落ち込んでいたわけではない。退院後、しばらくして最後まで残っていた挿入跡がふさがってくると精神的にもずいぶん楽になってきた。そうなると川野さんは持ち前のポジティブ思考になり、病気と闘おうという気持ちがまたふつふつとわいてくるのだった。

だが、2004年の12月も後半に入った頃、腫瘍マーカーが上昇に転じ始めた。転移か、再発か、川野さんに不安がよぎる。やがて不安は的中する。05年1月のCTで、左右両方の肺と腹部のリンパ節に転移が発見されたのである。

もう手術の適応はない。医師からそういわれた。残る手段は化学療法だ。

もっと患者の立場に立って

川野さんが化学療法を受けるのは、このときが初めてではなかった。2003年11月にも化学療法を受けている。このときは5-FUとロイコボリンを使い、6週投与、2週休薬というスケジュールで、治療期間は翌年6月までの約8カ月に及んだ。当初、便秘以外の副作用はなかった。だが12月に入ったとたん、吐き気が出るようになった。その後も続けると、抗がん剤の入った点滴のボトルを見たり、雑誌で「化学療法」という文字を見たりしただけで気分が悪くなるようになった。

川野さんは製薬会社に勤めていた頃、抗がん剤や制吐剤を扱ったことがある。化学療法を行っている現場を目の当たりにする機会もあった。20数年前のその頃は優れた制吐剤もなく、多くの患者は激しい吐き気に襲われ、文字通り七転八倒していた。川野さんの目にはその悲惨な光景が焼きついていて、今でもそれがトラウマになっているという。

「あの頃は自分も患者のことなど考えていませんでした」という反省を踏まえて今、川野さんはこう述懐する。

「製薬会社はもっと患者の立場に立ってほしいですね。副作用の程度を判定したときに、たとえ同じグレードだとしても、つらさや苦しさは人によって違います。そういうことを本気で考えてもらいたいのです。残念ながら医師はそこまで吸い上げようとはしませんし、その時間もないでしょう。製薬会社のMR(医薬情報担当者)なら、会社がMRに患者と話し合う機会を設けて直接患者さんの声を聞き、その本音を医師に伝えることもできるのではないでしょうか」

「化学療法を行う前には医師が説明してくれます。私は医薬品メーカーに勤めていたときの下地がありますからある程度理解できますが、副作用のことはポンと小冊子を渡されるだけです。そこにはすべての副作用が書かれていますから、何も知らない人はそれが全部症状として現れると思ってしまいます」

進行がんには延命効果しかない

製薬会社時代に川野さんはがん専門のMRを育成し、専門医と同等の知識を持たせて全国の医師を訪問させたことがある。シスプラチン(商品名ブリプラチン)などはそれによって多くの医師に使われるようになったのだという。だが、製薬会社の姿勢もMRのレベルも、あの頃とほとんど変わっていないと川野さんは指摘する。川野さんから見れば、専門医を除く医師も患者も抗がん剤についての知識が乏しいといわざるを得ないのだ。

「がんは50パーセント治る時代になった、という言葉があるでしょう。僕はあれが嫌いです。早期がんなら確かに50パーセント以上の人が助かります。でも進行がんの5年生存率は、20年前と比べても大して変わっていない。50パーセント治るといったらうそになります。そこはもっと正しく伝えてほしいものです。入院してほかの患者さんたちと話すと分かるのですが、抗がん剤でがんが治ると思っている人はいっぱいいます。知人の奥様もそうでした。乳がんが肝臓に転移していたのですが、化学療法をしたら一時腫瘍マーカーが下がったので、続けていれば完治すると思っていたようです。結局、亡くなりましたけど……。進行がんに対する化学療法は延命効果しかありません。伝え方も受け止め方も難しいかもしれませんが、患者はやはり本当のことを知っていたほうがいいと思います」

もちろん川野さんは化学療法を否定しているわけではない。近年、抗がん剤が大きく進歩してきたことも理解している。ただ、延命しかできないのに副作用が激しいので、化学療法に対しては手術のときほど前向きの気持ちになれないようだ。

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