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ミュージシャンとして、母として彼女が貫いたロックな生き方とは 復活のときを信じて、最期まで歌い続けた――。川村カオリさん(ロックミュージシャン)享年38
(ロックミュージシャン)
享年38
孤高のロックミュージシャン・川村カオリさん。がんが全身に転移しながらも、2,000人を前にライブを完遂した。彼女はなぜ死の直前まで,歌い続けたのか――。
命をふりしぼって3時間を歌いきった
その日、ライブ会場は静かな熱気に包まれていた。
09年5月5日、東京の渋谷C.C.Lemonホール──。
前年10月に乳がん再発を公表した川村カオリさんにとっては、久々の大規模イベントである「デビュー20周年記念ライブ」である。
満席の、2000人のファンの前で「Siberian Sky」を皮切りに3時間以上にわたって川村さんはがんの痛みに耐えながら熱唱を続け、アンコールの「ZOO」では、ギターを抱え、立ったまま歌い切った。
こうしてロックミュージシャン、川村カオリさんは自らの洗礼名でもあるアナスタシア(復活)を果たしたように見えた。しかし、その2カ月あまり後、川村さんは帰らぬ人となる。38歳の若さだった。
「今から思うと、姉はあのコンサートでエネルギーを使い果たしたのかもしれません。無理をしなければもう少し命を長らえていたかもしれない。しかし、それよりも姉は1人のロックミュージシャンとして、自分を支えてくれた人たちと、もう1度つながり合いたいと思っていた。その願いを果たすことができて姉自身も満足していたに違いありません」
こう語るのは、川村さんの実弟で現在は俳優として活躍を続ける忠さんである。
「原宿」から始まった、川村カオリのロック
川村カオリさん──。1971年、商社マンである父とロシア人の母親との間にモスクワで誕生。以後、日本とロシアでの生活を交互にくり返した後にイギリスでの高校留学中、98年に「ZOO」で歌手デビューを果たし、しばらく後には「翼をください」で大ヒットを飛ばす。その後、音楽活動を一時休止して渡米、帰国後はモデルやデザイナーとしても活躍しながら音楽活動を再開した。
革ジャンに細身のジーンズ、腕に入れられた鮮やかなタトゥー。そうしたルックス面での特徴からか、川村さんには「自立した女性ロッカー」というイメージがついて回る。もっともその背景には痛ましい過去が秘められている。
自伝『ヘルタースケルター』(宝島社文庫)によると、千葉県での小学生時代、同級生たちが「川村かおりを殺す会」を結成、そのことを知った川村さんは、下り坂を走る自転車を飛び降りて両腕を折ろうとしたこともあったほどだった。そうした屈折した時代の反動もあったのかもしれない。中学生になった川村さんは音楽にのめり込み、ストリートミュージックのメッカ、原宿に足を運び続ける。そして、それが川村さんの音楽活動の原点となった。当時、小学生だった忠さんも何度となく同行させられている。
「自宅に引きこもりがちだった僕を外に連れ出してくれたのです。原宿で姉はヒロインだった。そこで多くの音楽仲間をつくり、ミュージシャンとしてスカウトされたんです」
デビュー当初こそアイドル的な存在だったが、活動再開後の川村さんは自力で基盤を広げ、メッセージを発する自立したロックミュージシャンに変貌を遂げる。
瞳の奥に強い光を秘めた可愛い女の子
川村さんが18歳のときから彼女を撮影し続けている写真家、酒井久美子さんはこう語る。
「最初に出会ったのは、JALの広告の撮影で、カオリちゃんがまだ18歳のとき。内面の強さを感じさせる目の輝きが印象的でした。マイナス10数度というプラハでの撮影でも、1度も弱音を吐かなかった。自ら情報を発信できる人で、将来はマドンナのような存在になるのではと期待していました」
もっとも酒井さんは交流を深めるうちに、川村さんの別な一面も発見している。
「私の自宅で開いた新年会で、私の友人で俳優の水谷豊さんに『彼氏ができたら、ポケットの中に入ってずっと一緒にいたい』と言っていた。自分をさらけ出す強さとともに、普通の女の子と同じ甘えたがりの一面も持っていたのです」
強さと弱さ。自立したロッカーとごく普通の女の子。川村さんは自らの中に背反する2つの側面を併せ持っていた。ライブで必ず「1人で来ても、友達を作って2人で帰ってね」と、人とつながることの大切さを訴えていたのも、それらが重なり合った結果かもしれない。
乳房を失うこと以上に大切なもの
その川村さんに初めてがんが見つかったのは、04年9月のことである。同じ仕事をしていたギタリストの元夫と結婚し、愛娘ルチアちゃんが誕生して間もないときだった。忠さんがそのことを聞かされたのは、しばらくたってからのことだった。
「心配をさせたくないからでしょう。姉は何ごともないようにさらりと『がんになった』と言いました。ただ『なぜ、もっと早く検診を受けなかったんだろう』とすごく悔やんでいました」
実は川村さんの母親もその数年前に同じ乳がんで苦しみ、41歳の若さで他界している。そのことが、川村さんと忠さんの脳裏をフラッシュバックする。
やはり後になって乳がんを聞かされた酒井さんによると、川村さんは1期の乳がんで、乳房を切除しない温存手術も十分可能だったという。しかし川村さんは「ルチアがいるから絶対再発したくない。再発しなくてすむなら乳房なんかいらない。思いっきり取ってください」と医師に告げた。
「乳房よりも生きることが大切だからと話していました。もちろん子供がいなくても再発はいやだけど、ルチアちゃんがいるから『絶対に生きなければ』と考えていたのでしょう」
同じ年の10月、川村さんは左乳房を全摘。その後、再発予防のための5カ月間の抗がん剤治療。それで川村さんのがん治療はひとまず終了する。
そうした自らの体験から川村さんはがん予防についての情報発信にも取り組み始める。「同じ体験をする女性を1人でも減らしたい」という思いから、川村さんは乳房切除後の手術痕をさらけ出した自らのヌード写真を公開、さらにがん体験を語るトークショーへの出演など、ピンクリボン活動にも積極的に参加するようになる。
酒井さんはピンクリボン活動の一環として、乳がん患者としての川村さんの写真を撮った。
「カオリちゃんは、ほとんどノーギャラでの撮影を二つ返事でОKしてくれました。そのときに本気なんだと感じました」
もっとも治療が終わってから自らのがんについては、ほとんど語ることはなかったという。川村さんの中では、自らのがんはすでに「終わった問題」としてとらえられていた。
しかし川村さんのがんは終わってはいなかった。初発から4年後の08年1月、乳がんの再発転移が明らかになる。
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