がん哲学「樋野に訊け」 2 今月の言葉「逆境を逆手にとれ」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2016年9月
更新:2016年9月

  

妻ががんで他界して認知症の母親と2人きりになってしまった

E・Sさん 60歳男性/神奈川県

 50代後半までは順風満帆の人生でした。というか、そう思い込んでいました。仕事は人一倍こなしていたし、2人の息子も独立して自分の人生を送っている。唯一の気がかりは認知症を患った母親のことでしたが、気丈な妻が献身的に面倒を見てくれていたので、私がそのことを実感することはほとんどありませんでした。少々は貯えもあるし、定年後は妻と2人で母親を介護しながら、のんびりと暮らしたいと思っていました。

ところがその妻が昨年(2015年)の秋、進行性の乳がんであっけなく他界してしまいました。残されたのは、私と認知症の母親の2人きり。妻が突然、いなくなってしまったことによる精神的なショックに打ちのめされているさなか、今度は母親の容態が急激に悪化してきました。専門的にはBPSD(行動・心理症状)というらしいのですが、夜間の徘徊や物隠し、などの症状が頻繁に現われるようになったのです。

そうでなくても慣れない家事にてんてこ舞いしているのに、母親の面倒も見なければならない状況に追い込まれ、私は定年を前に退職を余儀なくされました。妻を失くした失意の中で、わがままが助長し続ける母親を介護する日々は正直、厳しい。ヘルパーなど福祉の手は借りていますが、なかなか夜も眠れない。もっとつらいのは、この状態がいつまで続くかわからないこと。こんな状況で、わたしはどう人生に向かい合えばいいのでしょうか。

人間は「大海に浮かぶ小舟」

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 人間の存在とは、たとえてみれば大海に浮かぶ小舟のようなもので頼りないものです。雨や嵐に遭遇すると、ただちに遭難の危機に見舞われる。そのことを考えると、危機のない人生というものはあり得ないと理解すべきでしょう。質問者のE・Sさんも、その例外ではなく、これまでの順調な人生が一転、深刻な危機に見舞われているわけです。

苦しい状況を克服して、人間として新たな一歩を踏み出せるか、それとも状況の中に埋没し、暗い日々を送ることになるか、人生の大きな分岐点に直面していると言ってもいいでしょう。

では、どうすれば新たな光明を見出すことができるのか。もっとも大切なのは、E・Sさん自身がその危機をどう受け止めるか、ということです。すでに述べたように人間には誰しも、厳しい受難の時期が訪れます。その受難をネガティブに捉えると、暗鬱な日々に埋没してしまうことになる。場合によっては、自分はもう生きていけないと安易な道を選択してしまう危険もあるでしょう。

しかし、その危機を自分に与えられた試練だと肯定的に受けとめれば、状況はまったく違ってきます。もちろん、そのことでE・Sさんの目の前にある光景が変わるわけではありません。亡くなった奥さんが戻ってくるわけもないし、認知症の母親の容態がよくなるわけでもありません。しかし、視点を変えることで、そうした光景に内包されている意味がまったく違ったものになってくるのです。そして、そうして自らに与えられた試練に屈することなく、淡々と生かし、前向きに日々を生きていくことで、E・Sさんは1人の人間として、確実に成長を遂げていくことでしょう。

とことんまで悩めば視野が広がる

では、実際どう、この問題に向かい合えばいいのか。もう少し具体的に見ていきましょう。まずやっていただきたいのは、E・Sさん自身の生き方に2つの求心点を持つようにすることです。このシリーズで前にもお話しましたが、人生の試練を乗り越えるには、異なる2つの求心点が必要です。

E・Sさんの場合でいえば、1つは最後まで母上の面倒を見るということ。そして、もう1つはE・Sさん自身の生活も大切にしながら、現実的に対応していくということです。「家族は余人をもって代え難し」という言葉もあるように、E・Sさんには、かけがえのない母上の面倒を最後まで見たいという気持ちがあることでしょう。その気持ちを大切に保ち続けるためにも、しっかりと現実に向き合っていくようにするのです。

すでにさまざまな問題が噴出していることでもわかるように、認知症患者さんの介護については家族だけの頑張りでは、どうしようもできない部分もあります。ましてE・Sさんの場合は、同居している家族はE・Sさん1人きりなのだから、苛酷さは並大抵のものではありません。

そこで福祉サービスなど第3者に任せられる部分は任せて、自分は自分の生活も大切にしながら、母親の面倒を見ていく方策を考えるようにする。もちろん地域により、サービスの度合いには差異がありますが、最近では、市町村を単位とした地域包括ケアが浸透しており、うまくいけば、的確な対応がとってもらえるかもしれません。

あるいは母上の容態が悪化したのは、介護者ががんで亡くなった奥さんから、介護にまったく手馴れていないE・Sさんに変わったことも起因しているかもしれません。しかし、第三者の手を借りることで介護負担が軽くなれば、E・Sさんの母上に対する見方にも変化が生じてくるかもしれません。

今は母上に対して否定的な見方が高まっていることでしょう。それがもっと温かな見方に変わってくるのです。そうなれば、母上のほうでも、そうした変化に呼応して、徘徊などの異常行動も少なくなってくることも十分に考えられるのではないでしょうか。

もっともそうはいっても、人間はなかなか気持ちを前向きに切り替えられないのも、また事実です。そこで、最後に気持ちを切り替えるうえでの特効薬を紹介しておきましょう。

人生の試練に直面して悩んでいるときには、1度、思い切り悩んで見ればいい。部屋に閉じこもって、とことんそのことを悩み抜く、考え抜いて見ればいいのです。そうして考え続けていると、その過程で明るい事柄も思いつく。

また、ふと視野が広がって自分が抱えている問題がちっぽけなものであることを発見することもある。さらに言えば「何とかなるさ」と開き直れることもある。私がこれまでそうアドバイスしてきた人たちは、ほとんど例外なく、1時間ほど悩んでいる間に、自然と前向きな気持を持つようになれたと話しています。そして、そうした状態で外に出ていけば、必ず新たな出会いが待っているものです。E・Sさんが置かれている状況の厳しさは、私にもよくわかります。しかし、だからこそ前向きな気持ちで、この難局を乗り越えていただきたいと願います。

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