2度の舌がん手術を乗り越え新たな夢に挑戦 がん患者や障がい者が生きやすい社会を目指して

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2019年4月
更新:2019年8月

  

渡部 亮さん 元・平塚市職員

わたなべ りょう 1979年5月神奈川県平塚市生まれ。2003年神奈川大学経営学部卒。2004年平塚市役所入庁。2012年慶應義塾大学大学院健康マネジメント修士課程修了。2015年ステージⅣaの舌がんを告知され舌半分と頸部のリンパ節を切除。退院直後の全日本スノーボード技術選手権で上位入賞し、スノーボードデモンストレーターに選ばれる。翌年準優勝。昨年(2018年)12月、15年勤めた平塚市役所を退職

歌手でタレントの堀ちえみさんがステージⅣaの舌がんであることを公表したことで、舌がんという病が世間の注目を浴びることになった。今回登場する渡部さんも同じ舌がん(ステージⅠ→Ⅳa)に罹り、2度の大手術の末社会に復帰するが、世間の偏見に晒(さら)され一時は死をも考えたという。

その渡部さんがスノーボードデモンストレーターという夢をつかみ取ることで自信を取り戻し、いままたがん患者や障がい者に対する偏見を払拭するため新たな夢に向かって挑戦しようとしている――。

耳鼻咽喉科で舌がんが見つかる

渡部亮さんの舌がんが発見されたのは、ほんの偶然からだった。

湘南という土地柄、夏場は毎日のように海でサーフィンを楽しむのが日課になっていた。ある日、サーフィンの後に耳に水が溜まって抜けないので、職場近くの耳鼻咽喉科を受診した。

水はすぐに抜けたのだが、医師が「他に調子の悪いところはありませんか」と尋ねてきた。そういえば先週に首のリンパが腫れたので、そのことを告げると「それじゃ、診てみましょう」と口の中を診た瞬間、「舌に腫瘍があります。大きい病院で検査したほうがいいですよ」と紹介状を渡されたのだった。

「そういえば舌に炎症が時々出来てはいたのですが、特別に痛みもなかったので気にはしていませんでした。そもそも舌がんという病気を知りませんでしたので、深刻には考えていませんでした」

翌週、紹介された大学病院に行き、舌の超音波検査と生検を行った。

3日後、医師から「舌がんの疑いがある」と告げられ、CT検査を受けることに。

翌週、検査結果が出て医師からステージⅠの舌がんだと告げられた。放射線治療という選択肢もあったのだが、若いから早く手術をしたほうがいいということで、手術日は1週間後に決まった。

手術は腫瘍の出来ている舌の右側を3分の1切除するというものだった。

「舌がんステージⅠなので5年生存率も90%以上あり、発語明瞭度も訓練次第で80%以上回復するということだったので、それほど心配はしていませんでした」

たった2カ月でステージⅠからⅣaに

手術時間は3時間程度だったが、舌を3分の1切除し、舌が動かないように縫いつけられていたため、5日間ぐらいは経鼻経腸栄養に頼らざるをえなかったことと、摂取カロリーを低く見積もられていたこともあって、2週間の入院で62㎏あった体重は52㎏まで落ちてしまった。

退院後の診察で主治医から「舌の切り口が、断端陽性(だんたんようせい)の可能性がある」と告げられていた。断端陽性とは、切断面にがん細胞が残っているということだ。

QOL(生活の質)を重視し、舌を大きくは切除しなかったことが原因だ。

ただそのときは「経過観察しましょう」と言われた。

「断端陽性の可能性がある」と告げられたこともあり、渡部さんはがん専門病院でセカンドオピニオンを受けることにした。

その病院では「もしも陽性だった場合には舌をもう少し大きく切って、予防的に頸部リンパ節廓清(けいぶりんぱせつかくせい)をすることになる」と告げられた。

そんな不安が現実のものとなる。

9月中旬、職場復帰して間もなく渡部さんは首のリンパ節にビー玉大のしこりがあることに気づいた。次の診察のときそのことを主治医に伝える。すぐに精密検査をした結果、やはり悪性のもので、リンパ節に2個の転移が見つかり、手術してからわずか2カ月ほどでステージⅠからⅣaにまでなってしまった。

「ここで初めて頭が真っ白になりました。妻や幼い子を残して本当に死んでしまうかもしれないと感じました」

渡部さんはスポーツマンで煙草も吸わないし、お酒も嗜む程度なのにまさかここまでがんが進んでしまうものかと思ったという。

2度目の手術は10時間にも及ぶ大手術

「いまの自分にとってどんな治療がベストなのだろうか」

そう考えた渡部さんは、妻と2人ネットなどを駆使し懸命に最善の治療法を調べた。放射線治療も考えたが、セカンドオピニオンを受けたがん専門病院から「今後のことも考え放射線治療のカードは残しておくべきだ」と告げられたこともあり結局、セカンドオピニオンを受けた病院で手術をすることを選択した。

2度目の手術は残っている舌の半分の切除、右頸部リンパ節郭清、左前腕皮弁による再建術だった。

まず舌を切除した後、右頸部リンパ節を廓清。左前腕の筋肉と動脈、静脈を残った舌半分に移植し、左前腕には鼠蹊部(そけいぶ)の皮膚を移植するという10時間にも及ぶ大手術だった。

左前腕皮弁での再建術の傷跡

2度目の手術で右頸部廓清術を行う

術後、ICUにいた渡部さんは目が覚めると体中が管で繋がれ動くことも出来ず、痛み止め(鎮痛薬)を注射されて意識が朦朧(もうろう)とする中、1時間おきに再建した舌に針を刺し状態を確認するので、眠ることも出来ない。そんな状態が2日続いた。

5日間いたICUから一般病棟に移った渡部さんだが、術後肺炎を起こし40度を超える高熱に苦しんだ。

そのため気管支切開され、喋ることはもちろんのこと痰(たん)も出せなくて、看護師さんに吸引してもらうのだが、それがとても痛く苦しいものだった。

左腕の筋肉を移植しているとはいえ、舌を半分切除し気管支切開もしているので喋ることはまったく出来ず、コミュニケーションは筆談とジェスチャーで行った。

退院してからの日常生活を送るために、入院中から言語療法士からの言語明晰度を上げるための訓練は受けてはいた。

その訓練は舌を動かすことから始めて、最初は一切、口を開けることが出来なかったので、口を開くためにブロックを口に入れ少しずつ口を開くことから始め、次にアイウエオと単音を発声し徐々にその言葉を2文字から3文字、4文字と増やしていき、最後に文章を読み上げる訓練を1日30分ぐらいやった。

「手術ももちろん大変でしたが、この訓練も30分でも結構、大変なものがありましたね」

そんな苦しい中での2度目の入院生活は42日間続いた。

コンビニで起きたショックな出来事で、自殺を考えるようになった

つらい訓練を受けていた渡部さんだが、入院中は医師や看護師とは何とか意思の疎通は取れたものの、家族とコミュニケーションが取れるようになったのは退院してからのことだった。

しかし、コミュニケーションが取れるようになったとはいっても、それは家族間のことで、渡部さんの不明瞭な話の内容を何となく理解してくれ、それでも不明な点は筆談で補ってくれていた。

退院後も病院に発語リハビリに通ってはいたが、「以前のように話がしたい」と強く希望していた渡部さんは、発語リハビリに力を入れていた昭和大学病院に紹介状を書いてもらい転院して、リハビリに務めていた。

そんな努力を続ける中、何とかコミュニケーションが取れるようになったと思っていた渡部さんはある日、職場に書類を送る必要があったため、自宅近くのコンビニにレターパックライトを、買いに出かけた。

店員に「レーターパックライトください」と話しかけると、その話し方にびっくりした店員が「すいません、すいません」と言いながら、バックヤードに店長を呼びに行き、渡部さんの前から姿を消してしまった。

「レターパックライトという単語は、ラ行が多いので確かに発音しにくいのですが、それでも自分が話す内容がまったく他人に通じないということは、自分が社会に適応していくことが出来ないのではないか」、そう考えて強い疎外感と孤独感を感じるようになり、家に引きこもって自殺まで考えるようになった、という。

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