書くことで病気との距離感がつかめるようになった気がします 女優・洞口依子さんが語る、子宮頸がんと共存するまでの長い長い道のり

取材・文●吉田健城
撮影●向井 渉
発行:2007年12月
更新:2019年7月

  
洞口依子さん

どうぐち よりこ
65年、東京生まれ。高校生で「週刊朝日」の表紙に。19歳で映画デビュー。伊丹十三、黒沢清監督の映画や、テレビでは久世光彦作品他に出演。著書に『子宮会議』(小学館刊)

子宮頸がんは女性にとって精神的にも肉体的にも辛いがんだ。早期に発見されない限り、子宮とその周辺部を広範囲に摘出するため、子供を生めない体になるだけでなく、ホルモンの分泌が止まって様々な後遺症に襲われる。洞口さんも「精神的にも肉体的にも、憔悴しきって、瓦礫の山のいるような状態」に陥った。彼女はそこからどうやって立ち直ったのだろう?

診察を受けるまで数カ月

写真:洞口依子さん

洞口さんが東京・駒沢の東京医療センターで子宮頸がんの1B2期と診断されたのは、2004年1月のことだった。

子宮頸がんは女性にとって一番デリケートな部分にできるがんであるため、心理的な要因で医師の診察を受ける踏ん切りがつかないことが多いが、洞口さんも、おりものが異常に多いことに気づいてから診察を受けるまで数カ月の時間があった。

「女医さんじゃなきゃイヤだという気持ちが強かったのと、自分では子宮筋腫を疑っていたんで、入院設備が整った大きな病院で診てもらう必要があると思っていたんです。
インターネットで探したら、近くの国立病院がその条件を満たしていることがわかったんで、電話で病状を話し、すぐ診察が可能か聞いたんですね。そしたら、年内は予約で塞がっていて、1カ月先じゃないと予約が取れないと言うんですよ。仕方がないので、ほかの病院を当たることにしたんだけど、決めかねているうちに御用納めになっちゃったという感じでした」

結局彼女が、心配した友人たちの手配で女医さんのいる山王病院の婦人科を訪ねたのは、1月中旬になってからで、その友人たちが「明日予約入れたから、すぐ行きなさい。あす絶対行きなさい!」と半ば強制的に行くよう仕向けなかったら、さらに遅くなっていただろう。

しかし、それから事態は急展開を見せる。

子宮頸がんの疑い

「山王病院で応対してくれたのは、大柴先生という歯切れのいい口調で話す女医さんでした。症状なんかを少し聞かれたあと、診察台で内診を受けたんだけど、仕切りのカーテンが無かったんで、最初、落ち着かなかったんです。でも、先生から『私の目を見てくださいね』と言われて、その通りにしたら、何か信頼感みたいなものが生まれて、(腟に指を入れて行う触診のときも)それほど痛みを感じなかったんです。
ところが、本当にいい先生に巡り合ったと思っていたら、終わったあと、先生から入院して手術する必要があるから、家に近い駒沢の東京医療センターに行くよう勧めらました。そのときは、もうサヨナラかと思いましたが、話を聞くと、大柴先生はつい最近まで東京医療センターにいらした方で、山王病院に移ったあとも、後任の先生たちと緊密な連携体制を組んでやっているということでしたし、詳しい検査をすぐに受ける必要もあるとおっしゃるので、すぐタクシーを拾って東京医療センターに向かったんです」

この時点では、まだ洞口さんは具体的な病名を知らされていなかったので、子宮筋腫以外の病名は頭になかった。しかし、子宮頸がんが疑われていれば、当然細胞診を行うため、子宮頸部の細胞採取が行われる。採取は腟に器具を挿入して行うが、目的がわかっていなかった彼女は診察台で激痛に声を震わせながら、なぜ子宮筋腫で、ここまでやるのかと思ったようだ。

しかし、そのわけはすぐわかった。終わったあと、再度主治医の山下医師に呼ばれた際、がんの疑いがあることを告げられたのだ。デスクの上にあるパソコンの画面に目をやると「子宮頸がんの疑い」と書かれた部分に釘付けになった。

そのあと山下医師から、まだ確定したわけではなく、1週間後に出る細胞診の結果を見なければハッキリしたことは言えないという趣旨の説明があったので、それからの1週間は、不安と期待の間をジェットコースターのようにアップダウンする毎日が続いた。

広汎子宮全摘術への抵抗感

結果が知らされる日、洞口さんは夫、夫の母親、叔母と一緒に山下医師を訪ねた。結果は陽性で、子宮頸がんの1B2期だった。がんは5センチくらいの大きさになっているが子宮頸部に留まっており、他の臓器への浸潤は見られないという。

それから病気の現状と今後の治療法について丁寧な説明があり、洞口さんの場合、放射線治療や抗がん剤治療も選択肢としてあるが、根治を目指すなら、広汎子宮全摘術という手術を受けることを勧められた。

彼女はこみ上げる涙を拭いながら逐次メモしていたが、この広汎子宮全摘術なるものの中身を聞いて思わず手が止まってしまった。それは子宮だけでなく、卵巣・卵管、腟の上部、骨盤内にあるリンパ節、靭帯まで一挙に切除してしまう、女にとってたいへん過酷な手術だった。

「がんの大きさは5センチと聞いていたので、なぜ、そこまでするのか理解できなかったですね。とくに子供を産めない体になることには抵抗感がありました。38歳になっていたけど子供を諦めていたわけじゃなくて、最近は40歳を超えて出産する方がたくさんいますから私もという気持ちは多少ありましたから。
しかも手術で卵巣を取れば、女性ホルモンが出なくなってさまざまな後遺症が出るし、リンパを取ればリンパ浮腫のリスクもある。手術の際に膀胱のまわりの神経にダメージを与えるのは避けられないから排尿障害も覚悟しなくてはいけないという話でした。
子供を産めなくなっても、それで楽になれるのなら話はわかるけど、手術後も後遺症に苦しむんじゃあ、受ける意味がないと思いました。ですから山下先生には、少し考える時間を下さいといって、ほかの方法も検討することにしたんです。そしたら山下先生が放射線科の萬先生を紹介してくださったので、行ってみたんです」

萬医師を訪ねて放射線治療のメリットとデメリットを聞いたとき、洞口さんは「これは、有りなんじゃないかと思った。開腹しなくてもいいうえ、子宮や卵巣も温存できる。しかも、治療成功率は手術とほとんど変わらないといわれたからだ。

しかし、それで大きく放射線に傾いたわけではなかった。放射線でも直腸炎、膀胱炎による排便障害や排尿障害、卵巣の機能障害、ひどい倦怠感、皮膚の灼熱感や黒ずみ、吐き気、食欲不振などのほかに、内照射(放射性物質を密封したアプリケーターを腟に挿入して、内側から照射する治療法)による腟の萎縮、乾燥など多くの副作用や後遺症が出るからだ。

迫る決断のリミット

それでも彼女は放射線のほうが手術よりはマシだという気持ちだったようで、治療に耐えられるかどうか、サイズ選びも兼ねて実際に腟にアプリケーターを挿入してみた。

ところが、これがまさに地獄の苦しみで、アプリケーターが挿入されると、激痛が走り診察台の上で、体をよじって耐えなければならなかった。細胞診用に腟内の各所から組織を削りとっているため、中がズタズタの状態だったのだ。

このつらい経験もあって、放射線治療のほうも積極的に選択する気になれなかった。手術を選択するかどうか態度を決めないといけないリミットになっても、どちらも選択する気になれず、主治医の山下医師に、手術も放射線治療も受ける意志がないことを伝えている。

それでも同医師に説得されて最終的に翻意し手術を受けることにしたのは、子宮頸がんの1期というスパンで見れば5年生存率に大きな違いがなくても、がんの大きさが数ミリ程度の場合と5センチの場合では、照射量は同じ50グレイなので、数ミリの場合は消失するが、5センチの場合は完全に消失したように見えても残っていて再発するケースが少なくないからだ。

8時間に及ぶ手術

「やはり決め手になったのは、先生から『もし放射線で完全に退治できなかった場合、手術を受けたくても受けられないんですよ』と言われたことです。まだ30代でしたから先は長いわけです。いちばん根治が可能なのは手術で、今を逃せば受けられなくなるわけですから、受けるしかないなと」

彼女の中で、手術は受けられるうちに受けておかなくては、という気持ちが強くなったのは、MRIの画像でがんと直腸がくっついているように見えたため、直腸に浸潤している疑いが生じたときだ。もし、そうだとすれば、手術では対応できなくなる。

直腸への浸潤の有無はバリウムを直腸に注入して行う注腸検査である程度判断できる。幸い注腸検査では浸潤が確認されなかった。

「もし直腸に浸潤があれば手術を受けられなくなるので『とりあえず、大丈夫』と言われたときは、ホッとしました。でも、この検査では細かい部分までは判断できないようなんですね。ですから山下先生からは『開けてみて万が一ダメな場合もありうるので、そのときは、別な手段を考えます』と言われていました」

こうした紆余曲折を経て2月10日に山下医師の執刀で手術が行われ、8時間に及んだ大手術は午後5時ごろ無事終了した。

しかし、これは第1幕の終了に過ぎない。そのあとには次々に現れる後遺症や副作用に苦しむ、試練の日々が待ち受けていた。


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