舌がん3期を宣告されるも、舌の再建手術を乗り越えたフォトグラファー
人生観を覆させられたがん体験。そして今、最も大切なこととは──
(フォトグラファー)
ますもと こうじ
1968年生まれ。日本大学芸術学部卒業後、出版社にカメラマンとして勤務。99年に独立し、商業写真の撮影とともに独自の制作活動を行っている。2010年に3期の舌がん発症。舌の右半分と頸部リンパ節を切除し、腕の皮と血管を移植して舌を再建した。今年から仕事も制作活動も再開
商業写真の"カメラマン"として活躍しつつ、"フォトグラファー"としても制作活動に意欲的に没頭してきた増元さん。
口内炎と思っていたら一転、「舌がん」と告知された。
腕の皮膚と血管を舌に移植する大手術を経て、増元さんが出合った新しい人生観、そして本当に大切だと気づいたものとは何だったのか。
「屍体」をテーマに国内外で写真展を開催
口腔がんの約4割を占めるといわれる、舌がん。喫煙や飲酒も原因の1つで、若い世代や男性の患者が多いことで知られる。手術の後遺症で、発語障害や味覚・嚥下障害などに悩まされ、社会生活に支障が出るケースも少なくない。
この舌がんを、働きざかりの42歳で発症。手術とリハビリを経て、見事に社会復帰を果たした人がいる。「もんじゃ焼き」で有名な東京・月島在住のカメラマン、増元幸司さん(43歳)だ。
増元さんは日本大学芸術学部出身。出版社にカメラマンとして入社し、99年に独立して雑誌を中心に活躍してきた。現在は、10~20代女性向けファッション誌を中心に、人物撮影から商品、イベント撮影まで幅広く手掛けている。そのかたわら、独自の写真表現を追求する制作活動も続けてきた。
初めての個展「屍体考」のDM
大学2年のとき以来、増元さんが一貫して取り組んできたテーマが、「屍体」だ。海岸に打ち上げられた動物や魚の屍を撮り続け、94年に銀座ニコンサロンで個展「屍体考」を開催。以来、国内のみならずハンガリーやルーマニア、スロヴァキアなどの東欧諸国でも作品を発表してきた。
朽ち果てた魚や犬の死骸を見ると、創作意欲をかきたてられるという増元さん。なぜ、それほどまでに「屍体=死」に惹かれるのか。
「僕は3人姉兄の末っ子で、両親とは40歳ぐらい年が離れていた。だから、『いつ両親が死ぬのか』と不安でたまらなかったんですね。自分の命も絶対だとは思えなかった。なぜ自分は生まれてきたのか、自分の存在の意味とは何だろう──。そんな"存在への不安"を、屍体を通して表現したかったのです」
日々の仕事に忙殺され、疲労がたまると、栄養剤やハブ酒を飲んでしのいだ。風邪もひかず、病院のお世話になることもめったになかった。
「煙草も酒も好きで、健康にはまったく気を遣っていなかった。区の無料健康診断にも、妻に強要されて1度行った程度。自分だけは病気になることはないと本気で思っていましたね」
口内炎が一転、「舌がん」に
増元さんが異変を感じたのは、42歳の誕生日を間近に控えた、2010年5月のことだ。右側の舌の裏に口内炎のようなものができ、痛みに悩まされるようになった。市販の薬や蜂蜜をなめて応急処置をしたものの、1カ月たっても一向に治る気配がない。
「7月末には、今度は歯が痛み始めました。自宅でパソコン作業をしながら、『歯が痛い、痛い』とぶつぶつ言っていたら、妻がうるさがって、勝手に歯医者の予約をとってしまったんです」
歯医者で口内炎を診てもらったところ、大学病院の受診を勧められた。さすがに不安を覚え、インターネットで「口内炎」を検索すると、「舌がん」という言葉がやたらと引っかかってくる。ネット上にアップロードされた舌がんの画像にも、自分の症状と重なるものがあった。あるウェブサイトのQ&Aには、こんな回答が載っていた。「舌にがんができたときは、すでに全身にがんが広がっていて、末期の状態です」
もちろん、舌にがんを発症したことが、即、全身転移を意味するわけではない。だが、がんの知識に乏しい増元さんは、その回答をすっかり信じ込んだ。
8月下旬に日本歯科大学の口腔外科を受診。担当医は患部を見ただけで、こう言った。
「はっきり言います。これから詳しい検査をしますが、10人の医者が診たら10人とも舌がんと言うでしょう」
その日はレントゲン撮影だけ行い、帰宅。告知を受けたときの心境を、増元さんはこう語る。
「ショックではありましたが、意外と冷静でしたね。以前から『うちはがん家系だから』と言われていたし、煙草も好きだったので、『やっぱりきたか』という感じでした。ただ、がんになったからといって、すぐに死と結びつけるようなことはなかったですね。6年前に胃がんを発症した親父も、当時はまだ生きていたので」
むしろ、まず脳裏に浮かんだのは、仕事のことだった。編集部に電話して、雑誌の仕事をキャンセルしなければいけない。10月には個展の予定もあり、すでに会場も押さえていた。だが、まだ会場の設置やレイアウトを決めていないし、案内状の発送なども残っている。そもそも、今から入院と手術をして、それで個展に間に合うのか──。
混乱する頭の中を、さまざまな思いが去来した。
舌が半分なくなっても話すことはできる
「……がんだって」
病院から自宅に戻ると、増元さんは妻にこう告げた。妻は思わず絶句したが、医療ライターを生業とするだけに、こんなときは誰よりも頼りになる存在だった。
翌日、増元さんは妻と一緒に、病院でCTの検査結果を聞いた。
「頸部リンパ節への転移があります。早急に手術することをお勧めします」
「放射線治療という選択肢は、当てはまりませんか」
同席した妻の質問に、医師はこう答えた。
「頭頸部のがんなので、放射線治療をすると顎の骨が10~20年後に崩れてくる可能性がある。増元さんはまだ若いから、手術がベストだと思います。ただ、手術すると、見える場所に傷が大きく残ることになります。それは気になりますか」
そう医師に問われ、増元さんは一瞬迷った。だが、「たとえ舌が半分なくなっても、話すことはできるし、味覚も残る」という医師の言葉に背中を押され、手術を受けようと決めた。
とはいえ、病気が病気だけに、一応はセカンドオピニオンを受けたほうがいいという妻の勧めもあって、がん研有明病院(以下、がん研)宛ての紹介状を書いてもらった。
奇跡のような偶然に導かれて
ここで、世にも不思議なシンクロニシティ(意味ある偶然の一致)が発動する。
数日後、増元さんは取引先の編集部を訪れて事情を説明した。そこの編集部員の女性からメールを受け取ったのは、その日の夜のことだ。そのメールには、こう書かれていた。
「実は、私の父が、がん研で頭頸科の部長をしています」
驚いて、がん研宛ての紹介状を確認すると、紹介先の医師が編集者の父君であることがわかった。そして、セカンドオピニオンを聞くため、がん研を訪れた増元さんに、くだんの医師は開口一番、こう言った。
「いつも娘がお世話になっております」
結局、自宅からの近さと、今後の転移の可能性を考えて、全身を診てくれるがん研で手術することにした。手術日も最速で9月9日と決まった。
それにしても、紹介されたがん研の先生が、取引先の編集者の父君だったとは──。奇跡のような偶然に、増元さんは、人の縁の不思議さをしみじみと感じていた。
(こんな縁に恵まれたのだから、きっと自分は、まだ死なないな)
何か目に見えない大きな力が、自分をサポートしてくれている──。増元さんは、奇妙な安心感に満たされていくのを感じていた。
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