悪性リンパ腫だった娘の闘病体験 命の大切さを伝えたい

文●廣澤直美
発行:2005年2月
更新:2019年7月

  

「私、この病気と正面から闘うことにする」

写真:亡くなる1週間前に彩里さんが作り上げたねずみの家族

亡くなる1週間前に彩里さんが作り上げたねずみの家族(?)

娘の彩里は小学6年生で発病し、3年あまりの闘病を経て、平成8年に中学3年生15歳で亡くなりました。病名は悪性リンパ腫でした。入院した日から私は自分の気持ちを落ち着かせて娘に笑顔で会えるように日記をつけていました。14冊となったノートの中から彩里の言葉を大切に残したいと思い、1周忌に本(日がのぼり日がしずむ 自分流選書)にまとめました。生への思い、家族、学校のことなど、彩里の言葉とともにお伝えできればと思います。

小学6年生の11月、娘の彩里はおたふくかぜの症状が続き、翌年1月には急激な黄疸のため入院となりました。肝機能検査の結果は異常な値で、白血球も1,000まで減少していました。2週間後についた病名は「肝炎後再生不良性貧血」。骨髄で血液が造れなくなる病気でした。原因は不明、骨髄移植が治療法という説明を受けますが、まずはステロイドなどの大量の薬による治療が始まりました。感染防止のため個室のビニールテントの中で不安な生活が続きました。

3月の小学校の卒業式には外泊許可がおり出席できました。「病室にいるときの私の気持ちは枯れているけど、今日はひまわりの気分だ」と本当に嬉しそうです。4月の中学校の入学式にも外出許可をもらい出席しました。帰り道「花はなんでこんなにかわいいんだろう」と、道端の花に顔を寄せます。大切な時間、ゆっくり歩きました。

しかし中学1年生として通ったのはこの日を含め6日間だけでした。病状は厳しく、骨髄採取のため腰の骨に太い注射が繰り返されました。

「自分でも5カ月間よく耐えていると思う。でももう限界。よく死なないで来たよね。どうしてこんな病気になったのかな、運命かな。頑張っているのにね」

白血球はかなり下がりました。その数を医師から聞くと、娘の目から涙がつたいました。

その後、同じ白血球型(HLA)の弟からの骨髄移植をめざし転院しました。しかし、移植はあまりにリスクが高く、再度大量の薬による治療を試みなければなりません。娘は自分の骨髄液を顕微鏡で見たとき「私この病気と正面から闘うことにする。時間も気にしない」とまっすぐ前を向いて言いました。

つらい抗がん剤治療。「泣けない。心が痛い」

写真:中3の修学旅行のときの彩里さん
中3の修学旅行のときの彩里さん

治療に立ち向かう一方で、学校のことも気にしていました。

「みんなに忘れられちゃう。こんなに勉強したいと思ったことはないよ」

私は担任にそのままを伝えました。「初めて病気の子を受け持つので何をしていいかわからないのですが」と言いながらも、先生からのお便りはまめに届き、席替えをしても娘の席を残して、折にふれ彩里の話をして、彩里がクラスの一員であることをみんなが忘れないように心がけてくれました。

また転院後、養護学校から訪問学級の先生がベッドサイドで勉強をみてくださいました。週3日2時間ずつ、体の状態に合わせながら、楽しい話や手芸など入院生活にリズムと張りがでました。漢字1つ、数学1題解けることで顔が輝きました。病院が生活の場になっているのですから、中学生としての成長ができる環境はとても大切なことと思います。学ぶことは明日につながります。将来の希望や夢につながります。

しかし、8月には首のリンパ節が腫れ、生検の結果「悪性リンパ腫」と診断されました。主治医より、まず親に抗がん剤治療の説明がありました。病名が変わったことで不安な気持ちにもなりましたが、医師とは率直な話し合いをし、娘には「リンパ腫」と伝え、強い薬を使うことなどを話しました。

彩里は髪の抜けることを一番心配していたので、鬘を用意しました。治療が始まると、がん細胞ばかりでなく白血球も血小板も赤血球も減少し、輸血で補いました。

「薬が入ると体がつらくなる。毒が入ってくるのがわかるんだ。怖いね」と輸血の袋を見上げ、「誰がくれたのかな、この血小板」と言いました。このころから、私は駅前で献血車に入っていく人を見かけると、心の中で「ありがとう」と頭を下げて通りました。

白血球の少ないときは、クリーンウオールのビニールの中のみの生活となります。しかし、3~4週間すると治療で減少した血液が再び増え、数日外泊ができます。これを約1年繰り返しました。1カ月間嘔吐が続くときもありました。

「やりたいことがいっぱいあるのに。私、人生やり直したい。嫌だ、こんな人生じゃ」と言うので「我慢しないで泣いていいんだよ」と私が言うと、「泣けない。心が痛い」と言います。娘の苦しみが私にも伝わりました。

18カ月間の入院で予定の治療を終え、念願の退院となりました。「本当に退院なの?」と信じられないようでした。そして1週間後「もう絶対、病院には戻りたくない」と言いました。

中学2年の9月より学校に戻り、3年には京都、奈良に修学旅行に行くことができました。

恐れていた再発。骨髄移植を決意

写真:病院での訪問学級の授業
病院での訪問学級の授業

退院から約1年が過ぎ、ようやく自信を持ち始めた10月、恐れていた再発が娘を襲いました。電話でそのことを伝えられると、娘は黙って涙ぐんでいました。

入院した時点で血液中のがん細胞は80パーセントでした。主治医はきちんと本人に伝え、信頼しあっていきたい、なぜこんなにつらい治療をするのかわからなくては、闘っていかれないと言いました。そして、白衣を脱いで彩里の側に座り話し始めました。病名は悪性リンパ腫で、がん化したリンパ球が増大して体のあちこちに広まってしまうこと、前と同じような治療をすること、弟からの骨髄移植も考えていることなど。

娘は翌日「薬で治らなかったら、私死んじゃうの? 恐ろしいね」と言いました。病名を伝えるということは、家族、医療者、周りの皆が一緒になって力を合わせようということです。さらに大きな心の支えが必要になります。「彩ちゃんが頑張っているのに負けられないでしょ」と夫は言い、本人が『生きよう』と思えるようにしていこうと話しました。

しかし、肺炎、脊髄への注射、放射線、高熱とつらい治療が娘の気力を奪っていきました。

「一生懸命やってきたのに、私何もする気がおこらない。やりたいことがいっぱいあったのに、今勉強してそれが何につながるの」と言います。それでも再び訪問学級の先生に来てもらうようになると明るさを取り戻し、「私、同情してほしくない。みじめだもん」「学校に帰りたい。楽しかった教室に戻りたい」と思いを口にします。

平成8年1月初旬、頑張ったかいがあり、治療の効果が現れました。そして、夫と私は今後の治療と3つの選択肢の説明を医師から受けました。「治療法を親が選ぶのですか」と思わず聞きましたが、「彩里ちゃんが選べますか」との言葉が医師から返ってきました。治療法はいずれも厳しい内容です。治りたいからどんな治療にも耐えてきたのです。治るために、私達は3年後の生存率が50パーセントという、弟からの骨髄移植を選びました。病室に行くと「ママ大変? 私がいて」と言うので「彩ちゃんがいてくれるからみんな幸せなんだからね」と言うと安心した笑顔をみせました。

彩里への移植の説明を数日後に控えた1月21日、急にひどい腹痛を訴えました。病院が休みの日で主治医はいません。宿直医に何度も普通ではない状態を訴えますが、深刻な状況とは判断されず、「今どうと言うことはないのでお帰りください」と言われました。夜8時を過ぎて面会時間も終わり、ひどく迷いましたが、電話で娘の様子を伝えてくれる約束をして私は帰宅しました。彩里は「何がなんだかわからない」と苦しい中、「バイバイ」と小さく私に手をふりました。

夜10時、病院からの電話で急いで病院に戻り、病室に入ったときには、慌ただしく蘇生が行われていました。主治医が慌てて入ってきました。4時間あまり彩里は頑張ってくれましたが、22日の朝を迎えることはできませんでした。握っていた手の温もりが、すぐに冷たくなりました。数時間前にバイバイしてくれた手でした。

病気の子どもを持つ親の会をつくる

亡くなって9日後に、夫と私は主治医に会いました。前日夫は主治医に、彩里に起こったことをまとめてほしいと依頼してありました。

解剖は望まなかったので死因は予測でしたが、主治医からの丁寧な説明がありました。この説明を家に帰って彩里に報告しました。

もう2度とあの病院には行かないだろうと思っていました。しかし、入院中は医療情報が得にくく、親だけで不安を抱えることが多かったこと、不安を話せる場の必要性などを実感していたため、4カ月後には数人の親御さんと共に「病気の子どもの親の会」を作りました。主治医の支援のもと、今年で9年目を迎えます。この会は、参加者の方と共に病気を学ぶ機会になっています。また、子どもたちが、病気であっても気持ちは元気でいてほしいと、小児病棟で粘土遊びやコンサートもしています。

子どもたちの笑顔に出会い、元気をもらっています。そして彩里の「自分から死ぬなんてもったいない。自分から死んじゃうんだったら、私、その命ほしいよ。私と代わってほしいよ」という言葉は、私に『自分のできることは何か』を問うものです。落ち込みと立ち直りを繰り返しながらも、娘と出会えたことに感謝し、今を大切にしたいと季節の移り変わりとともに感じています。

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